沖永良部島配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 15:05 UTC 版)
川口家は父の不始末によりお役御免となって鹿児島に引き揚げた。兄が鹿児島で家を再興したが、罪を犯して名跡を取り上げられたのに連座して量次郎は沖永良部島へ遠島になったとされる(鹿児島県立図書館の紹介文による)。しかし、別の説では島津久光の写字生として勤めていたが、公の書物を質に入れて焼酎を飲んでいたことが露見して沖永良部島に流されたとされる(これが流布されている通説)。さらに、文久2年(1862年)に西郷隆盛も同じ島に流されて和泊の牢に入れられたときに、川口は罪人ではないけれども、わざわざ沖永良部へ往って西郷の書や詩作の指導をしたとする説もある(重野安繹による)。川口家の子孫の間には、種子島出身のいわゆる「島五郎(しまごろ)」であるのに久光の書生として重用されたことを周囲に嫉まれて罪を着せられたという言い伝えもある。諸説紛々として判然としないが、文久2年つまり西郷の沖永良部遠島の前から何らかの事情で同じ島に流されて西原村に住み、島の子供たちに読み書きを教えていた。 通説によれば、西郷とは初対面から大いに意気投合し、西原から1里弱(3.4km)離れた和泊の西郷の座敷牢まで毎日のように通っては、時世を論じ学問を語り、書や詩作を教えるようになった。間切横目の土持政照は、西郷が迷惑ではないかと案じて面会の制限を問うたところ、「いや。川口どんは和漢の学に通じ、語るに足るお人じゃ。こんままでよか」と西郷が答えたと伝えられている。二人の間には次のような稚気溢れる逸話がある。 ある時などは、李白の詩を示して、「西郷さん、詩はこう作らないといけません、あなたのはまだ四(詩)になりません。三(賛)にもどうですかなあ、ハッハッハ」と笑ったという。なかなかの酒豪で、酔えばそのまま昼間でも庭先に寝込んでしまう。それで南州が<睡眠先生>と雅号を贈ったところ、同じスイミンなら<酔眠先生>がいいですよと改めた。またある時、南州を訪ねるのに一里の道を迷いに迷って、朝出たのにやっと夕方になってから着いた。南州が「それは前代未聞のこと、狐にでもだまされたんですかな、これからは<迂闊先生>とでも着け替え申そう」と言ったら、雪篷は「どうでもお勝手に、名前はいくらでもあった方が便利です」と答えて、それから「われわれ二人はどちらでも先に赦免された者が、おくれた者を扶養すること」という約束を交わしたという。 — 井元正流『種子島』より引用。
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