死没地・墓など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)
仲哀天皇御殯斂地の碑 - 画像 仲哀天皇の遺体が一時的にここで安置されたことに因む石碑。日頼寺境内にある他、日頼寺入口には「仲哀天皇御殯斂地入口」の碑もある。その経緯については先史時代節の仲哀天皇節を参照。 海軍大佐正六位勲五等服部潜藏之墓 日頼寺墓地から少し出た山道にある墓。碑文の通り海軍大佐正六位勲五等の服部潜蔵の墓である。墓地ではなく山道の途中にあるのは本人の海の見える場所がいいという遺志によるもので、長府金屋町の大乗寺には服部家の墓がある。 海軍大佐服部君墓誌銘碑 - 画像 功山寺境内の総門と山門の間の道の途中にある服部潜蔵の墓誌銘碑。明治21年(1888)年に建てられた。題字は海軍軍人の川村純義、文は書家の金井之恭により書かれて、碑文の撰文は海軍軍人の伊東祐麿によって行われた。服部潜蔵の墓については先述のとおりである。 河崎董之墓 正円寺にある長府藩士、河崎董(ただす)(1823-1871)の墓。大正13年(1924年)2月11日に建てられた。 清水先生之墓 法華寺にある、豊浦藩で活躍した清水浅彦(1831.3/24~1886.5/7)の墓。墓誌も見られるが明治20年(1887年)に建てられたものであるために判読できない。墓誌を建てたのは彼の元門下生93人で、墓誌には東京師範学校の監事であったなどの彼の経歴が書かれている。 植村精吾の墓誌 - 画像 大乗寺にある田上菊舎の研究者である植村精吾(1883-1920)の墓誌。高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の墓に似せて作ったと言われる独特な墓である。現在は大乗寺境内にあるがかつては功山寺境内にあったものである。墓誌には大きく「吾は努力なり」と書かれている。 中川夫妻の墓誌 法華寺にある中川鯉淵(りえん)とその妻の墓誌。それぞれ「玄光院俊翁涼斎居士」「観月院湛然妙儀大姉」と書かれている。中川鯉淵は長府藩士で、小田済川、古賀精里、中井竹山、十時梅厓らに学んだ。学者としてだけでなく、絵の才能にもすぐれ、「招魂帖」(ndl も参照)には彼の恩師や友人の絵が書かれている。 狩野晴皐の墓誌 覚苑寺墓地にある狩野芳崖の父、狩野晴皐の墓誌であるが判読不可能。この墓誌の手前には「狩野晴皐墓所」と書かれた石碑もある。
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