死亡の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:16 UTC 版)
1942年6月初めにスマトラ西部の都市パヤクンブ(Payakumbuh)に逃れ、「趙廉」と名乗り華僑蔡承達宅に滞在して酒造工場を手伝った。この地で唯一日本語を解する華僑として日本憲兵隊の通訳を務めたことから、給金を受け取っていなかったものの、周囲の人々には日本軍の協力者だと見られることとなった。しかし、その立場を利用してインドネシア人や華僑を保護することもあった。 1945年、日本軍は彼が郁達夫であることを認識した。日本降伏後のある夜、郁達夫は突然失踪するが日本憲兵隊に殺されたとも、抗日戦線に「漢奸」として秘密裏に処刑されたともいわれているものの今なお謎とされている。鈴木正夫も、郁達夫は日本憲兵隊によって殺害されたとするが(『スマトラの郁達夫』)、関与した日本憲兵の資料を公開していないため、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}学界では定説として認められるに至っていない[要出典]。 1952年、中華人民共和国中央人民政府は、郁達夫のことを「革命烈士(中国語: 革命烈士)」として追認した。1983年6月20日、中華人民共和国民政部は「革命烈士証書」を授けた。
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