歌舞伎・浮世絵・その他創作でのブーム(1860年以降)
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また、妖刀伝説は文化的な貢献もあった。 1860年、二代目河竹新七(黙阿弥)作『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやの にぎわい)』(縮屋新助)は妖刀村正を舞台装置として使って悲恋、悲劇を演出し、初期の黙阿弥を代表する傑作と言われている。 1866年から1867年にかけて、浮世絵師落合芳幾は、月岡芳年と共に無惨絵の傑作『英名二十八衆句』を発表、1720年ごろに佐野次郎左衛門が吉原の遊女八橋を刺殺した事件の歌舞伎化が再燃していたのを受け、佐野次郎左衛門と妖刀村正を結びつけて「一刀伊勢村正其の身に祟る殺人刀」「首の血煙水も溜ぬ籠釣瓶百人切」と書いた。芳幾に触発されたのか、競作者の芳年も1886年に(持っているのが村正かは不明だが)『佐野次郎左衛門の話』を描いている。維新後の1888年には三代目河竹新七が、妖刀村正と佐野次郎左衛門の百人斬り伝説をテーマにした歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』を発表、初代市川左團次らの熱演と共に明治期世話物の代表作と言われるほどの絶賛を受けた。 明治時代で最も有名な大英帝国の日本研究者の一人バジル・ホール・チェンバレンは、1890年初版発行の事典Things Japanese(『日本事物誌』)で、日本の四大刀工の一人がムラマサだが、ムラマサの刃(ブレード)は不吉と言われていたという説を紹介し、妖刀ムラマサの伝説は海外にも伝わっていった。
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