欧米のビタミン学の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
「日本の脚気史」の記事における「欧米のビタミン学の影響」の解説
日本の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本でフンクの新概念が世界の医界で定着した。 結局のところ、欧米での研究動向が、日本に決定的な影響を与えた。1917年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変説。 1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)がビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三委員が10月16日に代理報告)。1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が、日本料理に脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱導。 1921年(大正10年)、大森憲太(慶應義塾大学)と田口勝太(同)が別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違いないと主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。
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