横屋コースの開設とは? わかりやすく解説

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横屋コースの開設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:23 UTC 版)

横屋ゴルフ・アソシエーション」の記事における「横屋コースの開設」の解説

Clip 明治43年測図の地図今昔マップ on the web精細な地図閲覧可能)。青木魚崎集落中間、「浜横屋」と記され付近に横屋コースがあった。 日本初ゴルフ場は、1901年明治34年)に六甲山上に開設された(当初は4ホール。のちの神戸ゴルフ倶楽部)。しかしその立地から、冬季には積雪のためにプレーできなくなるという欠点があった。このため神戸ゴルフ倶楽部会員であったウィリアム・ジョン・ロビンソンは、冬季にもゴルフプレーできるよう、平地ゴルフコースをつくることを企画した1904年明治37年)、武庫郡魚崎村横屋天上川河口部右岸神戸ゴルフ倶楽部創設者であるアーサー・ヘスケス・グルーム確保していた土地無償借りてコース用地とし、横屋ゴルフ・アソシエーション設立したロビンソンは、コース近所農業を営む福井藤太郎に工事依頼した建設費600円は、ロビンソン私費賄ったという。 横屋コースは6ホールからなるフラットなコースで、全長1196ヤードパー21パー20とも)であったグリーン当初はサンドグリーン(ではなく砂で固めたグリーンであった福井家はゴルフ場の運営管理を行うこととなり、食事の提供キャディの手配なども行ったしばらくの間クラブハウスとして福井家の座敷借用されたが、当初会員はみな外国人であったため、靴を履いたまま座敷の「クラブハウス」に上がりこむ事態となったというエピソードがあり、藤太郎は英語を話せなかったため、諦めてそのままにしたとも、クラブハウスとして土間提供したともいう。福井藤太郎の二男がのちに日本最初のプロゴルファーとなる福井覚治1891年 - 1930年)である。覚治はやがてロビンソン専属キャディとなり、ゴルフ覚えた。 しかし1912年大正元年)、土地石油会社売却され無償ゴルフコース使用することが不可となったため、横屋ゴルフコース閉鎖されることとなったグルーム当時オリエンタルホテル経営していたが、借金かさんで返済窮し横屋土地を手放さざるを得なかったためという。 ゴルファーたちは代替地探し奔走し1914年大正3年)に鳴尾競馬場跡にゴルフコース鳴尾ゴルフ・アソシエーション)が設立され横屋ゴルフコース閉鎖された。

※この「横屋コースの開設」の解説は、「横屋ゴルフ・アソシエーション」の解説の一部です。
「横屋コースの開設」を含む「横屋ゴルフ・アソシエーション」の記事については、「横屋ゴルフ・アソシエーション」の概要を参照ください。

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