業績・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 05:08 UTC 版)
当初は行草を得意としたが、第二次大戦後は篆書、隷書、古文などの書体書法研究を進め、金石文に基づく篆隷を用いた多様な書体を駆使する作風を確立した。書の規範を中国に求め、それを日本人の感覚で表現する姿勢を貫き、中国の書の古典を素材として現代感覚を融合させたと評される。 杉雨の作品は作品ごとに趣が異なるため、「一作一面貌」と称される。特に篆書の作品は杉雨が最も得意とした書体であり、その絵画的な要素の強い作風は内外に大きな影響を与えた。生涯一度も個展を開くことがなかった。 書に用いる硯、印材、水滴などに優れた鑑識眼を持ち、多くの優品を収集した。また、教育者として多くの弟子を育てるとともに、雑誌『書道グラフ』を主宰し、中国書法の社会的な普及に尽力した。
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業績・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:59 UTC 版)
大正時代から昭和初期に活躍した中部地方(尾張地方)の漢字書家。行草書を得意とした。父に伴い名古屋で書を、親戚に画を習った。書を志し上京、豊道春海に師事する。泰東書道院で活躍するも、戦災により帰郷する。帰郷後は中部書壇の高揚に努め会派の違いを結集した中部日本書道会の育成に貢献した。自会派平心社(後の東海書道芸術院)を創立した。日展・中部日本書道会脱退後はかえって中部日本書道会の方が全国展出品者が増え、主流となっていった。 その後、嗣子の夭折により自邸と自作品の散逸を恐れ、自邸を法人化し個人美術館「財団法人晴嵐館」として保存、自ら理事長となった。
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