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森琴石

読み方もり きんせき

南画家兵庫県生。名は熊、字は吉夢別号鉄橋道人鼎金城学び金石号するが、のち琴石と改める。金城歿後忍頂寺梅谷師事し、また漢学妻鹿に学ぶ。漫遊好み詩・書能くする。『南画独学』等の著もある。文展審査員大正10年1921)歿、79才。

森琴石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 00:46 UTC 版)

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森琴石

森 琴石(もり きんせき、1843年3月19日天保14年2月19日[1]) - 1921年大正10年)2月24日)は、日本の明治から大正にかけて大阪で活躍した南画家銅版画家。晩年には文展審査員に任命され、大阪南画の総帥と目される一方、若年期は南画を描くかたわら響泉堂の名で、優れた銅版画を数多く制作した。

略伝

摂津国有馬温泉[2](現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎の三男として生まれる。名は熊、後年繁と改める。初号を蘆橋、次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢。別号に栞石、鉄橋、雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。1846年弘化3年)大坂で旅館「出石屋」を経営する森猪平(のち善蔵)の養子となり、1850年嘉永3年)鼎金城に南画を学んだ。金城が1862年文久2年)に亡くなると、忍頂寺静村(梅谷)の門に転じ、一方漢籍を妻鹿友樵(めが ゆうしょう)、高木退蔵に学んだ。

1873年明治6年)東京に遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。ただし、由一の門人帳には琴石に当たる名が見えず、実際の所は不明である。ただ、由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山(二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測される。明治10年頃から胡鉄梅や王冶梅ら来舶清人画家と交流する。に明治10年代には全国各地の景勝地を巡り、写生画稿が幾つか残っている。1882年(明治15年)の第一回内国絵画共進会で褒状。1884年(明治17年)浪華画学校の支那画教員となり、後に同僚になった矢野五洲と協働して、1889年(明治22年)浪華学画会を結成、翌年大阪府立博物場で大阪絵画共進会を開催する。翌年9月に宮内庁の御洋画家となったとされる。

このように南画家として活発に活動する一方で、明治8年頃から21、22年にかけて多くの銅版画を手掛けている。現在確認されているだけで60点から70点以上、特に地図は25点以上と多い。琴石が銅版画をどこで身につけたかはよく分かっていない。若林春水堂に学んだとされるが、作風の類似から松田緑山からも影響を受けたとも言われる。明治の銅版画家には、青野桑洲、結城正明、柳田龍雪、中村月嶺らのように、狩野派の絵師から転じたものが少なくないが、琴石のように南画家出身者は異例である。

その後も、内国勧業博覧会日本美術協会展などで受賞を重ね、大家として認められるようになる。大正2年(1913年)大阪の画家では初めて文展審査員に選ばれた。なお琴石を扱った文献では、同年に帝室技芸員を拝命したとされる。しかし、当時の『官報』に記載はなく、帝室技芸員を扱った学術論文などにも琴石の名は無い。これに先立つ明治43年(1910年)にも帝室技芸員の審査があり、琴石は鈴木松年野村文挙、村瀬玉田、山本梅荘、菊池芳文竹内栖鳳山元春挙らと共に総長から候補には挙げられたものの[3]、最終的に選から漏れたようだ。晩年は病気がちで、大正10年(1921年)78歳で没した。墓は当初安治川の墓地(場所不明)に葬られたが、後に四天王寺に移された。

代表作

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 出品展覧会 落款・印章 備考
月瀬山水図 紙本墨画淡彩 1幅 個人 1882年(明治15年) 第1回内国絵画共進会褒状
松竹梅図絵馬 桐板に著色 1面 美保神社 1884年(明治17年)
函嶺廬湖図 絹本著色 1幅 128.9x50.5 三の丸尚蔵館 1891年(明治24年) 日本美術協会展 宮内庁買上
山水図 絹本着色 1幅 171.2x87.5 泉屋博古館 1897年(明治30年) 款記「琴石森熊」[4]
蓬莱瑞靄図 絹本著色 1幅 徳川記念財団 1898年(明治31年) 秋季日本美術協会展二等銀賞 宮内庁買上を経て徳川家が拝領
澗閣松雲図 絹本著色 1幅 原敬記念館 1900年(明治33年) 秋季日本美術協会展二等銀賞 宮内庁買上。後に明治天皇御遺物として原敬が拝領。
春景山水・秋景山水 紙本墨画 双幅 春景山水:155.0x195.5
秋景山水:188.0x196.5
大阪中之島美術館[5] 1903年(明治36年)頃
廬山瀑布図 絹本墨画 1幅 渡辺美術館 1906年(明治39年)

脚注

  1. ^ 旧来は3月19日とされていたが、戸籍謄本に記された誕生日は2月19日であり、おそらく琴石自身が旧暦誕生日を月遅れで読み違えて新暦3月19日と称したと推測される。
  2. ^ 日本画家・森琴石 大阪市北区 2018年7月15日閲覧。
  3. ^ 東京国立博物館保管の帝室技芸員関係資料より(樋口秀雄 「帝室技芸員制度─帝室技芸員の設置とその選衡経過」 東京国立博物館編集 『MUSEUM』 第202号、1968年1月、p.30。横溝廣子 「帝室技芸員関係書類(東京国立博物館保管)概要」『三の丸尚蔵館年報・紀要』第17号、2010年3月、p.84)。
  4. ^ 泉屋博古館編集 『泉屋博古 近代日本画』 公益財団法人 泉屋博古館、2017年2月25日、pp.36-37,183-184。
  5. ^ [ID_4586] 春景山水・秋景山水 : 資料情報 _ 所蔵作品 _ 大阪中之島美術館コレクション(旧・大阪新美術館)

参考文献

  • 熊田司 「南画家森琴石と銅版画家響泉堂 ─美術史の雑鬧に紛れた画家の二重肖像」『美術フォーラム21』vol.13、美術フォーラム21刊行会、2006年4月、pp.69-78。ISBN 978-4-925185-23-3
  • 熊田司 伊藤純編集 『森琴石と歩く大阪 ─明治の市内名所案内』 東方出版、2009年8月。ISBN 978-4-86249-143-5
図録・画集

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