森有礼と「学校令」制定
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明治初年より外交畑での活動が多かった森有礼は、同時に明六社結成への参加(1873年)、東京商法講習所開設(1875年)への貢献にみられるように、教育への強い関心を抱き続けていた。その後、森は1879年〜1884年に駐英公使を務め、憲法取調中の伊藤博文とパリで会合、立憲政体下での教育のあり方について意見交換を行い、これをきっかけとして1885年12月の内閣制度発足に際し、初代文相に就任することとなった。森の考えは、教育の改革は「国家将来ノ治安ヲ図ルノ大主意」に基づくべきであって、そのためには教育のなかに強力な国家目的を貫徹させなければならないというものであり、師範教育(教員養成)の改革を最も重視していた。また彼は、従来のごとく単一の法令を通じて諸種の学校制度を規定した場合、将来予想される政治・経済・社会の変動によって学校制度が追加・修正されるたびに、そのつど大規模な法令改定が必要になると考え、そうした事態を避けるため必要に応じて「各別ノ条例」を制定していく方式を採用したこの結果、翌1886年3月から4月にかけて、まず高等教育相当の機関を規定する帝国大学令(明治19年3月2日勅令第3号)、教員養成機関を規定する師範学校令(同年4月10日勅令第13号)、初等教育相当の機関を規定する小学校令(同年4月10日勅令第14号)、中等教育相当の機関を規定する中学校令(同4月10日勅令第15号)、および学校設備などを規定する諸学校通則(同年4月10日勅令第16号)が順次公布され、以後、各種別の学校を規定することになった。これらの「学校令」制定により、(第三次)教育令は消滅(廃止)した。第二次教育令以降顕著となっていた教育に対する国家の支配はこの学校令制定によって決定的なものとなった。森文相は以上の5勅令に加えさらなる諸「学校令」の制定をめざしたが、その構想は1889年2月11日に彼自身が暗殺されたことによって途半ばに終わった。
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