柳美里との関係
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奥田と柳の交流は、奥田が2001年にDefSTAR RECORDSとの契約を解消し、音楽活動を休止していた最中、2002年に柳原作の小説『命』を読んで感銘を受けたところから始まる。 当初は、奥田の当時の所属事務所であった研音側が、小説『命』四部作を担当していた小学館のスタッフを通して柳にプロデュース企画の依頼を出していた。しかし、当時 柳は子育てをしながら朝日新聞紙上で『8月の果て』を執筆しており、現状が精一杯であったために企画に目を通すことなく断ったという。その後、奥田が柳のもとへ自分のこれまでの経歴と歌への思いを綴った手紙を送ったことから、柳は手紙の内容に心を動かされプロデュースを決意する。柳はプロデュースを決意するにあたり、「(手紙の内容を読んで)互いの喪失感が似ていると思った」ということが動機であるとし、「私は書くしかないし、奥田美和子は唄うしかない」とコメントしている。 2人が初めて対面したのは2002年7月22日、横浜ランドマークスタジオにてである。そこで奥田はカバー曲数曲を披露してみせたという。 柳は、楽曲制作を全て詞先(歌詞を先に書き、後に曲をつける手法)で行った。作詞の工程としては、まず奥田が自分で片付けられなかった過去を柳宛ての手紙またはメールで送り、次にそこから柳が感じたイメージを「奥田さんへの返信」として歌詞にするというものであった。 特に、4枚目の両A面シングル「はばたいて鳥は消える」は、これまでに奥田が送った実体験が書かれた手紙の全てが凝縮されたものだと奥田自身は語っている。 柳はこの方針を貫き、奥田に対する主観的なイメージを持たないように、あくまで客観視した捉え方でプロデュースを行うために、あえてプライベートでは会わないようにしたという。
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