柳沼家の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/19 10:11 UTC 版)
【柳沼氏】須賀川城に籠城した武将に柳沼与六左衛門正賢がいる。正賢の嫡男正朝と次男正秀は籠城戦で戦死し、正賢は落城後三男正清、四男氏具を伴って常陸に落ち、大乗院が須賀川に帰ったときに守屋館に居住して院に仕えたという。その後正清は秋田久保田藩に仕え二百石を与えられたという。氏具は会津の蒲生秀行公より慶長八年(1603)召し出されて竜崎乙字ヶ滝の瀑布奉行を命じられ三十石を与えられたという。その系図では橘姓で楠正成の孫正元の後裔という。永禄八年(1565)織田信長によって伊勢国八田の居城を攻められ正具とその嫡男正賢父子は落ち延びて本願寺に一時入寂したが、その後正賢は陸奥国に移り白河の常瑞寺にとどまり白河晴綱の家臣となったという。元亀元年(1570)に故あって白河を去り和田城主須田美濃守の客将となり、同二年二階堂氏に認められて堤村(須賀川市字堤)の柳沼館主となり柳沼氏を称したという。面白いことに福島県南会津郡檜枝岐村に居住する橘氏の系譜では橘氏は伊勢国治田城主楠七郎左衛門正具が織田信長に敗れて、その二男橘好正がこの地に落ち延びて居住したことに始まるという。両者を比較するとほとんど同じ内容であり系譜として信憑性は高いのかもしれない。幕紋・旗紋は菊水、家紋は輪違い・花菱・抓珠である。ただ江幡家に伝わる古文書には二階堂為氏が出した竜崎城主内 柳沼内記宛の書状があり、前記の柳沼氏以外にもかなり以前からこの地方に柳沼氏が居住していたことがわかる。実際別の柳沼氏の系譜では藤原姓を称するものもある。それによれば中臣鎌足の十一代の後裔峯麿が大和国柳沼郷に居住して柳沼氏を称したという。家紋は左三つ巴である。また塩田氏系図によれば、細桙城主塩田右近大夫政繁の家臣に柳沼 静がいる。
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