柳河藩の楊心流長刀の伝承
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「楊心流薙刀術」の記事における「柳河藩の楊心流長刀の伝承」の解説
現在、「楊心流薙刀術」の名称で活動している柳河藩伝の系統では(熊本藩伝の系統は「伯耆流居合術」の名称で活動している)、星野家とは関係なく伝承されていたとの主張をしている。 その内容は、柳河城主の立花宗茂が、関ヶ原の戦いで西軍に与したことによる改易後、磐城国棚倉藩主となった時に、楊心流開祖の秋山義時が宗茂を警護したという。その後、1620年(元和6年)に宗茂が旧領の筑後国柳河藩に転封されると楊心流は柳河藩の御留流とされ、中でも薙刀術は殿中に仕える女中の護衛武術とされたとする。その伝統を受け継ぎ、演武においては振り袖着物姿に襷掛けで白足袋を着用し、襷や鉢巻きは包帯に代用するため、布を縁取りしないものを使用している。 しかしながら、柳河藩伝の系譜は第8代の星野龍介まで星野家の系譜と一致しており、幕末頃の第10代に柳河藩に楊心流薙刀術を伝えた調琴乃助が記されており、むしろ星野家の系統から分かれたことを裏付けている。 また、他藩に嫁入りする可能性がある女性に教える流派が御留流になりえるのかも疑問がある。
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