柏木への移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)
神保町の聖書学校の男子寄宿舎と淡路町の女子寄宿舎が狭くなったので、中田とカウマンは郊外に広い敷地を求めるようになった。中田とカウマンは豊多摩郡淀橋町字柏木に三千坪の土地を見つけて購入した。 1904年8月25日には新築聖書学院の図面が「焔の舌」の発表され、1904年10月31日に聖書学校を淀橋町柏木に移す。正式名称は聖書学院、通称柏木聖書学院と呼ばれる。1905年2月10日より11日まで、神田美土代町の基督青年会館(YMCA)で「聖書的純福音宣伝大会」が開かれ、中田は笹尾鉄三郎や三谷種吉らと共に説教をした。中田は「キリストの大本営」という題で1時間半の説教をし、「恩恵の座」を開いた。 1904年9月4日に兄の久吉が病気で倒れた。中田は久吉のもとを駆けつけ、13日に腸チブスと診断されて好生館に入院した際にも、付き添った。しかし、久吉は入院直後に亡くなった。 翌年1905年(明治38年)2月15日にカウマン夫妻が再来日すると、3月下旬に中田はカウマン夫妻と共に名古屋と伊豆地方に巡回伝道した。4月のイースターには三女のリリーが生まれた。6月には疲労を覚えた中田はカウマンと共に日光に保養に行った。 1905年7月26日に浅草駒形橋の近くに、駒形伝道館を設けて、7月から好地由太郎が住み込んで伝道した。9月に浅草で路傍伝道をしたところ好地らが暴徒に襲われるという事件があった。この件について基督教会から忠告委員が中田を訪問し、好地らの伝道の仕方について忠告した。中田はこれに対して「ほかにどんな方法があるのか」と反論した。 9月には深川で材木商川端商店を開業していた川端京五郎が、友人の竹谷弁蔵に誘われて通うようになり、翌年4月に受洗する。
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