林家三平を名乗り続けた理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:09 UTC 版)
「林家三平 (初代)」の記事における「林家三平を名乗り続けた理由」の解説
三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。5代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。 一方、師匠7代目橘家圓蔵もまた、自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。 三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず、結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである(5代目柳家小さん『咄も剣も自然体』)。そして、三平の名を一代で大看板にした。 結局月の家圓鏡の名は弟弟子の橘家舛蔵が襲名した。三平がテレビで人気を博していたころ、舛蔵改め圓鏡は、主にラジオのトーク術で人気を博し、三平同様演芸界のスターダムにのし上がってゆくことになる。のちの8代目橘家圓蔵である。
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