東京 - イギリスでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 06:04 UTC 版)
「トネ・ミルン」の記事における「東京 - イギリスでの生活」の解説
1880年(明治13年)、ミルンは東京へ転居し、日本地震学会創設のための多忙な身となった。トネはミルンに尽くす決心をし、東京へ転居してミルンと同居生活を始めた。東京でのトネは、日常生活に加えて、日本語の文献の翻訳、日本の歴史の調査など、陰ながらミルンの地震学研究に助力した。トネはミルンの妻としてトネ・ミルンを名乗ったが、トネは寺の娘で仏教徒、ミルンはキリスト教徒という宗教の違いなどが障害となり、役場に届けを提出することができず、当時としては珍しい事実婚であった。 やがて日清戦争を経て、日本では排外意識が露わとなり、国外の者を排除する動きが強まった。そのためにミルンは、日本を去る決心した。当時、お雇い外国人と日本人女性との恋愛は、そのほとんどが悲恋に終わり、男性と別離した女性は「羅紗緬」として差別されていたことから、トネはミルンが日本を去ることを辛く感じた。しかしミルンは、日本でやり残したこととして、「トネとの結婚届を出さなければならない」と告げた。 1895年(明治28年)、トネとミルンは事実婚から14年目にして、正式に夫婦の籍を入れた。国際結婚もまた、当時はまったく異例のことであった。同1895年6月、トネはミルンとともに、多くの人々に見送られて日本を発った。イギリスには永住する覚悟を固めていた イギリスではミルンは、地震観測の最適な地として、ワイト島に住んだ。トネは、日本への望郷の念が募るものの、ミルンの深い理解と愛情に包まれて過ごした。ミルンはトネを1人の女性として扱い、人間性を重んじたことから、トネは「日本人と結婚していたなら、これほどの幸福感は得られなかったろう」との思いであった。またミルンにとっても、トネによって彼の人生が有意義になり、地震学に没頭できるのはトネがいたからこそであった。 ワイト島でのトネは、慣れない異国の地の生活に苦労しながらも、お茶の時間を陽気に取り仕切るなどして生活した。函館で英語を身につけていたにもかかわらず、現地の知人の証言によれば「英語はあまりわからなかったようだ」というが、それでもしきりに喋り、冗談を言っては周囲を笑わせ、周囲の者たちはトネが何を言おうとしたかを当てようとするなどで沸き立った。イギリス人であるミルンほど社交性は広がらなかったが、ミルンからは常に愛情と思いやりをかけられていた。
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