東京への出奔とその挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「東京への出奔とその挫折」の解説
ふみ子の死の直前に、ふみ子自身が撰歌した歌集「乳房喪失」が刊行されたが、その構成内容から判断して、1951年10月2日の離婚した頃には自らの体の変調を感じ取っていた可能性が指摘されている。 離婚直後の10月24日、ふみ子は家族に黙って2人の子を置いて東京へ出奔した。出奔時、ふみ子が持っていたのはバッグとトランク一つずつであり、まずは東京家政学院時代の友人を頼る心積もりであった、東京行きの決意を聞かされた歌友の舟橋精盛は、あまりの突然の話に止めるよう説得するも聞き入れなかった。東京行きの途中、ふみ子は当時札幌に居て文通中であった高橋豊と会っている。高橋もあまりに無謀な出奔に驚き呆れ、やはり止めるよう説得するも無駄であった。 上京したふみ子はまず蒲田に住んでいた東京家政学院時代の友人を頼った。ふみ子は手に職をつけた上で子どもたちを東京に呼び寄せ、生活していきたいと考えていた。蒲田の友人宅には約一週間滞在した後、渋谷区富ヶ谷のアパートに移り、タイピストの養成学校に通い始めた。東京ではふみ子は蒲田の友人とともにNHKで働いていたかつてのボーイフレンド・樋口徹也に会いに行っている。青春時代ふみ子が憧れ、「お兄様」と呼び情熱を燃やした樋口は変わっていた。何よりふみ子自身が変わっていた。再会は果たしたもののお茶も飲まず、ほんの立ち話程度で樋口との再会は終わった。 東京でふみ子は空いた時間に岡本太郎の絵画展に行ったり、歌舞伎座に行ってみたりもした。しかしさしたる用意もせずに上京してきたつけにふみ子が直面するのも早かった。経済的に行き詰ってきたのである。やむなくキャバレーでホステスをしたり、インドカレー店の求人に応募して採用されたものの、体調がすぐれないために働くことはなかった。この頃すでにふみ子の体に癌が成長しつつあった。結局、11月18日、仕事の仕入れ関係で上京してきた母に連れられて帯広に戻ることになり、ふみ子の一か月足らずの東京生活は終わった。 年末、ふみ子は札幌の高橋豊にクリスマスカードを送っている。その中でふみ子は無謀であった東京出奔の反省を述べるとともに、「結局は歌にでもすがって己の不幸を見つめるより仕方ない私なのです」と書いている。
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