東ニュージャージー(1683年)
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「スコットランドによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「東ニュージャージー(1683年)」の解説
1683年11月23日、イングランド王チャールズ2世が24人の領主に対してニュージャージー植民地の勅許を与えたが、そのうち12人はスコットランド人だった。この植民地はイングランド人が入植したウェスト・ジャージーとスコットランド人が入植したイースト・ジャージーに分かれた。スコットランド植民地の中で推進者となったのはユリエのロバート・バークレーであり、著名なクエーカー教徒であり、初代イースト・ジャージー知事になった。 クエーカー教徒は重要な戦力であり、イースト・ジャージーの全ての領主がクエーカー教徒だったが、1660年代と1670年代のクエーカー教徒に対する迫害の影響も一部あったので、開拓者としては宗教や熱心さよりも全国的な範囲で求められた。 1680年代、約700人のスコットランド人移民がイースト・ジャージーに渡ったが、その大半はアバディーンとモントローズの出身であり、そのほぼ半数は年季奉公として渡った。1685年からは、移民達が望んだわけではないが、カベナンター(17世紀スコットランドの同盟派)で逮捕された者の国外追放で移民が増えた。彼等は着いた当初年季奉公とされたが、自発的な奉公ではなかったので裁判所が自由の身を宣言することになった。1690年代、イングランド王ウィリアム3世かつスコットランド王ウィリアム2世がジェームズ2世を支持した領主に対抗したために、スコットランド人移民の伸びは鈍化した。再び増加するのは1720年代になってからだった。イースト・ジャージーへの初期移民はクエーカー教徒、聖公会員、長老派教会員だったが、1730年代までに長老派教会が支配的な宗派になった。 1697年までイースト・ジャージーの歴代知事は全てスコットランド人だった。1702年以降になっても政治と実業界では強い影響を持ち続けた。この1702年にイースト・ジャージーとウェスト・ジャージーは王室領植民地に統合された。
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