月探査機打ち上げ競争
月への一番乗りめざすアメリカも、当初の打ち上げは失敗続き
人工衛星の打ち上げで旧ソ連にリードされたアメリカは、無人月探査機計画を進めました。月への一番乗りをめざしたのです。しかし、1958年8月にソー・エイブルロケットによって打ち上げた第1号月探査機パイオニア0号(重量38kg)は、第1段が爆発して失敗に終わりました。また、同じ年に打ち上げられたパイオニア1号、パイオニア2号、パイオニア3号もロケットの推進(すいしん)不足、上段ロケットの点火ミスなどにより、どれも成功することができませんでした。
1959年、旧ソ連のルナ3号が史上はじめて月裏側の写真撮影に成功
アメリカの失敗をよそに、旧ソ連は1959年1月、月探査機ルナ1号(361kg)を打ち上げました。ルナ1号は月に命中しませんでしたが、同年9月に打ち上げられたルナ2号(390kg)はみごとに月面に命中し、地球以外の天体に届いたはじめての探査機となりました。さらに旧ソ連はルナ3号を1ヵ月後の10月に打ち上げ、史上はじめて月の裏側の写真撮影に成功しました。以後、1976年までに24機のルナ探査機が打ち上げられました。
レインジャー計画などでアメリカは月探査計画立て直しをはかる
旧ソ連におくれをとったアメリカは、月探査計画の立て直しをはかりました。1961年から、月の撮影を目的とした「レインジャー計画」を開始し、さらに1966年からは月面への軟着陸をめざす「サーベイヤー計画」と、月のまわりを回って観察をする「ルナ・オービタ計画」がはじまり、多くの探査機が打ち上げられました。これらの計画は大きな成果をあげ、有人月探査のアポロ計画に引きつがれていったのです。アメリカの無人探査は1968年まで続けられました。
- 月探査機打ち上げ競争のページへのリンク