曲折の埋葬作業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/16 01:47 UTC 版)
明治元年(1868年)9月22日の開城後、10月1日に民政局が設置される。2000余の会津藩士の遺体は賊軍という汚名のもと埋葬することも許されず、腐乱するがままになったと巷間言われているが、同月4日には郭外に放置されている遺体を城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた「遺体埋葬令」が出された(会津若松史6巻)ものの、降雪と12月までに頻発した一揆のため作業が中断されたとするのが実情で、この間「『彼我』の戦死者一切に対して決して何等の処置をも為すべからず、もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との会津若松での明治新政府通達が出され、会津側だけでなく、新政府側兵士の遺体も野ざらしにされたという。 当時若松取締の 町野主水らが新政府軍務局長で岡山藩の三宮耕庵に働き掛け、罪人塚から寺院に埋葬が変わったとはいえ、その作業は被差別部落の人々により行われ、「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であったという。いたたまれぬ藩士たちは作業を丁重にしてくれるよう賎民に頼むも金を要求され、工面できたが身分の違う賎民との接触は適わなかった。そこで「白羽の矢」が立ったのが伴であった。伴は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていたのである。『君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に入籍して斬られるのも精神において変わりのないはず、殉難者のお骨は伴に拾わせて頂きたい』-伴は敢て身分を落とし直接作業に当ったのである。町野は話の通じる三宮を訪ね、事情を明かし頼み込み、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など16ヶ所に総数1634 の遺体が、2ヶ月にわたり埋葬されたという。
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