早期の文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:37 UTC 版)
神荼と鬱塁の言及で最も古いとされるのは『山海経』から引かれたとする王充(97年没)『論衡』の記述であるが、現存の『山海経』には欠ける内容であり、文体や内容考証からその逸文とは考えにくいとされる。 その『論衡』訂鬼篇の記述によれば神荼・鬱塁(うつりつ)はの二神は、海からそびえる巨大な桃の木の上にたつが、その木の枝は屈蟠すること3000里。大木の北東に鬼門があり、二神は行いの悪い鬼(死者の霊)を葦索(アシでゆった縄)で縛り、虎に喰わせるという。それにちなみ黄帝が、魔除けの慣習を民間にはやらせたとされる。桃の材木で出来た人形(大桃人)を立て、神荼・鬱塁、虎の絵を門戸に描き、葦索を掛けるというものである。 同作品の別篇(亂龍篇)にも記載されているが 、多少文言が異なり、黄帝が制定した慣習ではなく、県官(漢王朝の婉曲表現とされる)が、大桃人や門戸の絵付けで厄祓いをおこなっているとする。 蔡邕(192年没)の『獨斷(独断)』よく似た記載がみられる。応劭『風俗通義』(195年頃)では『黄帝書』(黄帝四経(中国語版))を引いているとするが、内容はほぼ同じである。これらには、魔除けの飾りが付けられるのが大晦日、厳密言えば臘の儀式前の夜とされている(臘は年末の祭典、臘八節の前身)。桃材の人形は桃梗とも呼ばれるが、、木を削った彫像であったことにも触れられている。 上記は、中国の民間信仰である門神の起源伝説にあたる。後の時代、他の神格が門神として取って代わりもしたが、地域によっては近年でも神荼・鬱塁が新年の門神として飾られる。
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