早すぎた死と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 01:41 UTC 版)
田村は満32歳(享年34)の若さで病死した。舟橋雄草の追悼によると、1909年(明治42年)の夏7月12日に病を得て、同月17日に腸チフスと診断、当時の高木兼寛設立の東京病院(現・東京慈恵会医科大学付属病院)に入院、翌8月19日午後5時に永眠した。青山学院内青山メソヂスト教会で葬儀、青山墓地に埋葬。東京都公園課によれば改葬と管理者変遷があり、埋葬は確認できるが現在の所在は不明。 残された妻の名は「くら子」または「くら」。2人の娘があり、名は長女「喜美 Grace」、二女「みち子」。青山学院のどちらの資料でも妻「くら子・くら」は海岸女学校(1877-1894、以降は東京英和女学校と合同)中退となっている。田村自身また妻についても実家・類縁は不明。 実は、妻が日本人かも不明。極めて突飛な仮説は「くら子」または「くら」の本名は「Clara」か。田村は東京青山の自宅でも英語を使っていたと書いている。田村は前述のとおり、帰朝後も家庭で英語を使っていたと書いているが:p.91、妻が米国に行ったのは田村より4年も前でありむしろ英語に馴染んでいて翌年には娘たちを連れて米国に戻っているが、その後の足取りは不明である。なお、フィラデルフィアにあるThe Pennsylvania Museum and School of Industrial Art(現・University of Arts, Philadelphia)の1930年(昭和5年)の卒業式プログラムの卒業生リストに長女と同じ名前のKimi Grace Tamuraがある。
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