日本経由の帰還者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:47 UTC 版)
日本側の海外から引揚げる人々の受入業務を担当したのは引揚援護局で、各帰港地で引揚援護局が検疫や帰還援護業務を担当した。沖縄への引き揚げを担当した引揚援護局は、浦賀、名古屋、佐世保、鹿児島、大竹、宇品が沖縄への送出港に指定されていた。ゆえに、海外から日本本土を経由し帰還する沖縄県人は、まず日本の各地の引揚港で降ろされ、そこから列車で広島や九州へ向かい、そこから引揚船で沖縄に渡る。その際、奄美と沖縄県出身者に対しては「非日本人登録」が行われた。引揚者の天然痘の発生により、GHQは1946年3月18日付で8月15日まで沖縄への送還を差し止めた。 米軍の報告によると、沖縄への引揚者は、1946年10月後半で週9,000人という規模にふくれあがり、8月から12月までの5ヵ月間に約10万4千人が沖縄本島に帰島した。また輸送中に32人が出生し、17人が亡くなっている。またそれ以外にも密入国のような形で正規ルートを経ず帰島した者もいる。 引揚者が帰還した港は久場崎海岸で、まずDDT消毒などが行われ、施設内で収容年月日や氏名や移民先などを記録され、その後、キャステロ収容所内の引揚民数インヌミか久場崎収容所に送られた。現在、中城村字久場後浜原には戦後引揚者上陸碑が建立されている。
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