日本南画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:31 UTC 版)
日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年)(甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜』を独学し長崎派の河村若芝に添削指導を受け、柳沢淇園も長崎派の英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された。しかし、富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、冨田溪仙(1868年 - 1938年)、小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている。池大雅の弟子桑山玉洲は『絵事鄙言』で松花堂昭乗、俵屋宗達、尾形光琳も南宗に加え中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ渲淡画様式を南画としてとらえている。南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品、逸格、「去俗」を重要視した。
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