日本初のフリー騎手として八大競走制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:11 UTC 版)
「渡辺正人 (競馬)」の記事における「日本初のフリー騎手として八大競走制覇」の解説
騎乗馬が集まり始めた1950年にはミキノヒカリで読売楯争奪アラブ東西対抗戦(春)を勝利し重賞初制覇。秋には当時のマイルレコードを持ち、快速牝馬の異名をとったコマミノルで優駿牝馬に勝ち八大競走初制覇。1952年にはミツハタで天皇賞(春)を制し、この年の関東リーディングではトップの二本柳俊夫に2勝差と迫る48勝で2位につけるなど、名実ともに関東を代表する騎手のひとりとなった。この間には障害競走にも多く騎乗したが、大きな落馬事故を経験したこともあり、姉や妹から「障害競走に乗るのはやめてほしい」と言われ続けてきた。しかし「中山大障害を勝つまでは」という決意の上で騎乗を続け、ついにミツタエで1951年の中山大障害(秋)を勝利。この勝利を置き土産に障害免許を返上、平地専業となる。 こうした活躍には、中山に厩舎を構えていた矢野幸夫や、師匠筋である武田文吾(中村一雄の弟弟子)など、渡辺の騎乗技術を評価し、騎乗を任せた調教師の存在も大きかった。矢野は騎手としてミツハタ(当時は人馬ともに東原玉造厩舎所属)に騎乗していたが、1952年の調教師転身時に東原からミツハタを譲り受け、ミツハタの後継騎手に渡辺を指名。人馬は同年春の天皇賞をレコードタイムで制し、その恩に報いた。 なお、この時の天皇賞は渡辺も相当自信があったようで、レース前、知己の実況アナウンサーに「今回の天皇賞は必ずいただく。勝ったら東の方にムチを差し出すから『ナベ正が関東のファンに応えている』とでも言っておいてくれよ」と言い残し、実際ゴール後にムチを東の空に差し出した渡辺を見て、アナウンサーもそのように実況したという。 この当時、矢野幸夫厩舎の見習い騎手だった矢野進(後に騎手~調教師)は、厩舎に身を寄せていた渡辺について「非常にきちょうめんな人で、靴磨きで少しでも靴墨が残っていたり、腹帯も綺麗に洗っていないと叱られました」とする一方で、「強いて言えば後の岡部幸雄騎手のような感じ。細かいことを言うようで実に理にかなっていたから、うるさいというよりもむしろ勉強になりました。ありがたい兄弟子だったと思います」と語っている。また、競馬場から離れると優しい兄弟子だったようで「コーヒーの好きな人でよく私にも飲ませてくれました。また、コーラを初めて飲ませてくれたのも渡辺さんでした。当時はサイダーしか飲んだことがなかったから、新鮮だったのを覚えています」と結んでいる。
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