日本のバレーボール黎明期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:18 UTC 版)
「多田徳雄」の記事における「日本のバレーボール黎明期」の解説
広島師範学校在学中は、バレーボールは勿論柔道(初段)、水泳、陸上競技、野球などをする。同校卒義後、広島市内の中島小学校(現中区)教員となり、各学校の教員を集めバレーボールの講習会を開いた。 1918年4月、広島の西練兵場で大阪朝日新聞社広島通信部が主催となって女学生の陸上競技大会が開かれ、競技種目中に始めてバレーボールも加えられて試合が行われた。これは日本における初めてのバレーボール試合であり、日本で最初に行われた女子の公式戦といわれる。 1919年、マニラで行われた第4回極東選手権競技大会(以下極東選手権)に水泳・陸上両種目の代表として参加(バレーボールは派遣費用の関係で不参加)。この大会で外国選手のバレーボールのプレーを見て更にバレーボールに熱中。帰国後、中国新聞に『バレーボールとは』のタイトルで連載をしている。多田を中心に教師から子供達へバレーボールの輪は広がり、広島は兵庫と並ぶ日本のバレーボールのメッカとなった。また1919年、呉市教員の水野寅一、池田勇が多田が講師を務めた広島県下排球講習会に参加。これが呉でのバレーボール発祥といわれ、水野らによる呉地区のバレーボール普及は1922年、日本の実業団バレーボールチーム第1号・呉工廠排球チームの誕生、及び呉工廠バレーボール黄金時代に繋がった。 1920年、アントワープ五輪一次予選のやり投で日本新記録を出したものの世界標準記録に及ばず、出場は見送られ、オリンピック出場はならなかった。
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