日本における祭文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 13:45 UTC 版)
日本にあっては、平安時代において釈奠がなされるとき、司祭である大学頭が孔子及び孔子十哲の画像に幣帛と酒食を供えて祭文を読み、自ら祭壇の酒を飲みほす習わしがあった。また、菅原道真にかかわる伝説に、道真が讃岐国に赴任していた仁和4年(888年)、同国で大旱魃があり、讃岐守である道真みずから城山で身を清めて7日間にわたり祭文を読上げたところ、慈雨に恵まれたというものがある。 日中の国境を越えた祭文もある。『南方紀伝』応永18年(1411年)条や新井白石『読史余論』などによれば、明の永楽帝は室町幕府第3代将軍であった足利義満が死去したとき、子の征夷大将軍足利義持に書をつかわし、故義満に対し「恭献王」の諡号とともに祭文を贈っている。また、1925年(民国14年)3月に死去した孫文の告別式では、国賓の礼を以て渡支した犬養毅(当時加藤高明内閣の逓信大臣)が南京の中国国民党中央党部において孫文の死を悼む祭文を朗読している。
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