旅客機としての開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:58 UTC 版)
「Fw 200 (航空機)」の記事における「旅客機としての開発」の解説
アメリカ合衆国のダグラス DC-3の成功により旅客機市場が脅かされていたドイツでは、新たな長距離旅客機の開発を迫られていた。そのような中でルフトハンザ航空向けにクルト・タンクの設計で製造されたのがFw200であった。 720 hpのBMW 132Gエンジンを4基搭載した大型機で、旅客定員は25名、航続距離は3,000 Km以上に及んだ。試作機は1937年7月に初飛行し、優秀な性能を示した。 この機体は1938年8月10日にベルリンからニューヨークへ24時間56分で大西洋横断無着陸飛行を行ない、13日には19時間47分でベルリンに戻ってくるという快挙を成し遂げた。また、無着陸飛行では無いものの、同年(昭和13年)11月28日には、ベルリンのベルリン・テンペルホーフ空港から東京府(当時)立川市の立川飛行場へ、バスラ・カラチ・ハノイの3箇所で給油した上で46時間20分52秒での飛行にも成功している 。Fw 200はルフトハンザ航空で使われた他、スウェーデンとブラジルへも輸出された。試作3号機は、ヒトラーの専用機となった。 また、ルフトハンザは満州航空との協力の元、ドイツと満州国を無着陸で結ぶ航路を計画したものの、1937年に勃発した日中戦争の勃発を受け実現されなかった。なお日本の大日本帝国陸軍は九二式重爆撃機の後継機としてユンカースJu 90四発旅客機の購入を検討、ユンカース社に三菱重工業の本社営業課長を派遣して交渉したが、交渉は1938年(昭和13年)9月に断念された。するとドイツ滞在中の三菱スタッフはFw 200に興味を持ち、交渉の結果Fw 200の訪日飛行が実現する。その後、5機の注文を行ったが、日本陸軍の興味は軍用型(Fw 200C)に移っており、購入計画はキャンセルされた。
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