新校地時代(高瀬川河畔)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 03:32 UTC 版)
「京都市立立誠小学校」の記事における「新校地時代(高瀬川河畔)」の解説
それでも移転問題は旧校地から約200m離れた備前島町への移転遂行で決着を見せた。1926年9月には地鎮祭を終えて着工され、12月には用地買収が完了した。京都市営繕課によって鉄筋コンクリート造3階建・ロマネスク様式の新校舎が設計され、1928年1月21日に竣工した。用地取得費は43万3000円、建設費は38万5380円、総工費は81万5592円であり、当時としては異例とも言えるほど高額な総工費は、住民からの寄付金、家屋税、起債で賄われた。 特別教室の多様さは特色のひとつであり、1階には唱歌教室・地歴教室・図書教室、2階には理化学教室・手工教室・裁縫教室・ミシン教室・児童研究室(計量器室)、3階には修身作法室・舵教室、普通教室に加えて、理科室や地歴室などの特別教室9室、雨天体操場、プールが設けられた。京都市の小学校では初めてプールが設けられ、近隣住民から羨まれる存在だったが、初代プールは横7m×縦15m×深さ1mの貯水池にすぎなかった。このプールは体位の向上や水泳の奨励に寄与し、京都府下の小学校水上競技大会で立誠校の児童は好成績を残した。校舎は北棟と南棟からなり、南棟の東端に講堂兼雨天体操場がある。講堂兼雨天体操場は同時期に成徳校、淳風校、銅陀校にも建設されたが、この4校の中では唯一現存している。
※この「新校地時代(高瀬川河畔)」の解説は、「京都市立立誠小学校」の解説の一部です。
「新校地時代(高瀬川河畔)」を含む「京都市立立誠小学校」の記事については、「京都市立立誠小学校」の概要を参照ください。
- 新校地時代のページへのリンク