新たな計画、マリノフスキーの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:58 UTC 版)
「デブレツェンの戦い」の記事における「新たな計画、マリノフスキーの攻撃」の解説
1944年9月14日第2ウクライナ方面軍は第3ウクライナ方面軍とともにベオクラード攻勢を開始した。しかし、フリースナーが作戦のために部隊を集中させていたため、第2ウクライナ方面軍はこれに遭遇、激しい抵抗を受けた。結果の伴わない1週間の攻撃の後、いったん攻撃を中止させたマリノフスキーは後の攻撃に使用する予定であった予備戦力、消耗していた第6親衛戦車軍に機械化騎兵集団(司令官イッサ・プリーエフ、第7機械化軍団、第4親衛騎兵軍団、第6親衛軍団が含まれ戦車・突撃砲289両が所属)と騎兵戦車集団(第5親衛戦車軍司令官セルゲイ・イリイチ・ゴルシコフ(Sergei Ilyich Gorshkov)が兼任、第23戦車軍団が所属、戦車・突撃砲146両が所属)を伴わせて 、オラデア 近辺での攻撃を命令した。 1944年9月20日、ルーマニア軍はルーマニア・ハンガリー国境の町、アラドを占領した。この行動はハンガリー参謀本部を混乱に落としいれ、新兵と予備兵で構成されていたハンガリー第3軍を編成することとなったが 、これは限定的な戦力を持つに過ぎなかった。 ハンガリー国内ではドイツ派、連合国派に分かれており、同時に国を支配しようとし始めていた。ハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュ提督はソビエト連邦と本格的な休戦交渉を行いはじめていた。フリースナーは状況確認のため、戦いに必要としていた補強された部隊をブダペストに送ることを強いられたが、フリースナーは部隊の休暇と修理をブダペストで行う前提でこれを行った。 1944年9月末までにマリノフスキー、フリースナーはそれぞれ命令を受けていた。マリノフスキーはアラド南側周辺の突出部からブダペスト方面へ進撃するよう命令されており、成功した場合、突破口を拡大するために騎兵機械化軍団の第46軍、第1ルーマニア軍を使用することになっていた。第2ウクライナ方面軍の残存部隊(第6親衛軍、第53軍、ゴルシュコフ騎兵戦車集団を含む)はオラデア北方近辺からデブレツェン方面へ進撃することになっていた。これらの計画はリンクしており、2つに分けられた部隊はドイツ軍を包囲、これを殲滅することになっていた。 一方、フリースナーはフレッター・ピコ軍集団によるオラデアからの攻撃も命令されていた。彼はソビエト防衛線を横切り、カルパチア峠を占領、次の春まで保持することになっていた。 これはフリースナーの二手に分けられた部隊が、同時に同じ場所で攻撃していることを意味していたが、ドイツ軍側は敵戦力を過小評価していた。
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