斎藤鶴磯説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 03:09 UTC 版)
斎藤説はその著書『武蔵野話』に載ったもので、西宿地区一帯を漠然と比定している。しかし斎藤は地域の伝承に基づいて説を立てたのではなく、悲田処と京都にあった貧困者・被差別階級者専用の療養施設「悲田院」を名前だけを根拠に完全に混同した上、この地の被差別階級者が実際には西宿地区から遠く離れた場所に固まって住んでいたにもかかわらず、その事実を無視し村全体に住んでいるかのような勝手な推量をして「この久米川村には被差別階級の人が住んでいる、悲田処の跡もここにあるだろう」と述べている。この発言は誤解の上に当て推量が入っていて、深い考察の上で述べられたものとは言えず、全くの誤説と言うしかない。 ところが斎藤説は『武蔵野話』が武蔵野初の本格的な郷土誌であることもあってか、誤説であるにもかかわらず受け入れられてしまい、「悲田処のある場所」=「被差別部落」、または「周辺住民は悲田処に収容されていた人が土着したもの」という説がまかり通るようになってしまった。これに引きずられて斎藤と全く同じ混同をして主要道そばに重病人や伝染病者(京都の悲田院は伝染病者も収容した)の収容所を置くことなど有り得ない、と諏訪町説を否定する人々も現れ、悲田処の研究に大きな混乱を来たす原因となった。 確かに『武蔵野話』は郷土資料として価値のある書物であるが、あくまで研究書ではなく単なる個人の体験や聞き書きに基づく地誌であって、多分に斎藤の誤解や主観による推量も含まれている。それを鵜呑みにして歴史学的・考古学的な考察を要する問題を論ずること自体に無理があったと言えよう。 この斎藤説とそこから派生した説は、昭和6(1931年)に『埼玉県史』で不完全ではあるが否定され、最終的に昭和58(1983年)に東原那美『武蔵悲田処に関する研究 並 古道ぞいの寺社について』内の一章「武蔵悲田処と部落の関係」で徹底して行われた史料批判により完全否定されている。
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