教え子の失踪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 08:22 UTC 版)
K子は大場との愛人関係に悩み、さらにホジキンリンパ腫のため体調を崩し、静養のため山梨県甲府市で呉服店を営む実家にしばらく帰省していたが、1973年7月19日に慶應義塾大学病院での定期治療のため上京した。当日午後、K子は新宿駅地下のダイアナ靴店新宿店で、売れ筋とはいえない特徴的な赤いハイヒールを購入したのち、その日は獨協大学生の弟と一緒に下宿していた東京都北区十条の親戚宅に宿泊する。しかし、翌20日に「友達に会うので遅くなる」という伝言を残して下宿先を出たのを最後に、連絡が絶えた。両親は分別のあるK子の行動としては不可解なうえ、健康状態も気がかりだった。しかし、7月23日になって「二週間ほど旅行します。8月4日に帰ります」という、21日新宿局消印のK子直筆の手紙が実家に届き、ひとまず安心する。また、30日には「大伴旅子」なる人物から、「遊覧船では厄介になりました。あなたの彼によろしく」との礼状が、現金20,000円を添えて実家に郵送されてきた。1973年当時、大卒初任給の平均は57,000円で、大学院生の所持金としてはかなりの大金であるため、両親はK子の音信不通はあくまで家出ではなく、裕福な異性との長期旅行と信じ、また嫁入り前の娘に対する風評も懸念し、大学や警察への捜索願いの届け出を思いとどまった。しかし事件発覚後、二通の着信はすべて大場の偽装工作だったことが判明する。そのうえ大場は、「大伴旅子」の手紙が届いた30日に「まだ帰りませんか」とK子の実家をわざわざ訪れ、両親からの相談に親身に対応して信頼関係を築くほどだった。
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