政治家への転向、晩年
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1922年(民国11年)6月、陳炯明がクーデターを起こすと、これに反撃を図る孫文(孫中山)により、許崇灝は東路討賊軍警備司令に任ぜられた。1923年(民国12年)、許崇灝は黄埔軍官学校創設を孫文に提言している。1924年(民国13年)1月、広東省財政委員会委員に任ぜられ、まもなく広東全省沙田清理処処長に移った。1925年(民国14年)6月、再び粤漢鉄路の管理を担当し、後に粤軍総司令部顧問となっている。 国民政府の北伐が完了する直前頃に、許崇灝は軍人の職務を離れ、以後、政治家として活動することになる。1928年(民国17年)、広東省党務指導委員会秘書に任ぜられ、同年11月、考試院秘書に転じた。その翌月に両粤賑災委員会委員に任ぜられている。1929年(民国18年)12月に考試院秘書長代理となり、1932年(民国21年)12月から1942年(民国31年)12月まで同院秘書長をつとめた。その後は、国民政府顧問や考試院院部顧問官などを歴任している。中華人民共和国成立後も許崇灝は大陸に留まり、1956年1月には上海文史館館員となった。1957年、死去。享年77。
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