捕えられたプロイセン軍の部隊
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「ランデスフートの戦い (1760年)」の記事における「捕えられたプロイセン軍の部隊」の解説
ランデスフートの戦いで捕えられた部隊は、知られている限り、当時の旧プロイセン軍で用いられた呼称で呼ばれていた。太字で記されているのは、各連隊長および大隊指揮官の名である。擲弾兵大隊はそれぞれ指揮官の名前で呼ばれ、一部は大隊を構成するため、どの連隊から擲弾兵中隊を抽出したのか識別できるように番号が添えられている。またフュズィリーア連隊の場合は、それと明記してある 歩兵部隊擲弾兵大隊 17 / 22 「ヴォーバースノウ」(第17および第22歩兵連隊の擲弾兵中隊で編成されている) 擲弾兵大隊 24 / 34 「ゾーベック」 擲弾兵大隊 28 / 32 「アルニム」 第10「パンヴィッツ」歩兵連隊のうち、第1大隊 第33「ラ・モット」フュズィリーア連隊のうち、1個大隊 第37「ブラウン」フュズィリーア連隊のうち、第1大隊 第42「マルクグラーフ・ハインリヒ」フュズィリーア連隊のうち、第1大隊 第46「ビューロウ」フュズィリーア連隊のうち、1個大隊 第5「ユンク=ズュードウ」守備連隊の一部 第11「メリン」守備連隊の一部 第2「クービエール」義勇大隊(ドイツ語版) 第4「ショスィニョン」義勇大隊 第6「リューデリッツ」義勇大隊 「ベロウ」義勇大隊(1760年5月、敗残の義勇大隊から再編された義勇部隊) 騎兵第8「マラホウスキー」フザール連隊(「黄色のフザール」とも呼ばれる)の一部
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捕えられたプロイセン軍の部隊
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「マクセンの戦い」の記事における「捕えられたプロイセン軍の部隊」の解説
マクセンの戦いで捕えられた部隊は、知られている限り、当時の旧プロイセン軍で用いられた呼称で呼ばれていた。太字で記されているのは、各連隊長および大隊指揮官の姓である。擲弾兵大隊はそれぞれ指揮官の名前で呼ばれ、一部は大隊を構成するため、どの連隊から擲弾兵中隊を抽出したのか識別できるように番号が添えられている。またフュズィリーア連隊の場合は、それと明記してある。 歩兵部隊擲弾兵大隊 4 / 16 「ヴィレミー」(第4および第16歩兵連隊の擲弾兵中隊で編成されている。) 擲弾兵大隊 13 / 26 「フィンク」 擲弾兵大隊 19 / 25 「シュヴェリーン」 擲弾兵大隊 37 / 40 「マントイフェル」 擲弾兵大隊 41 / 44 「ベネッケンドルフ」 常備擲弾兵大隊 3 「ベネッケンドルフ」 第9「シェンケンドルフ」歩兵連隊のうち、1個大隊 第11「レーベンティッシュ」歩兵連隊を構成する2つの大隊の両方 第12「フィンク」歩兵連隊のうち、1個大隊 第14「レーヴァルト」歩兵連隊のうち、1個大隊 第21「ヒュルゼン」歩兵連隊のうち、1個大隊 第29「クノーブロッホ」歩兵連隊のうち、1個大隊 第36「アルト=ミュンヒョウ」フュズィリーア連隊のうち、1個大隊 第38「ツァストロウ」フュズィリーア連隊のうち、第1大隊 第45「ヘッセン=カッセル」フュズィリーア連隊の内、1個大隊 第47「グラーボウ」フュズィリーア連隊の残存部隊 第48「ザルムート」フュズィリーア連隊の内、第2大隊 第55「ハウス」フュズィリーア連隊(かつてのザクセン軍「ルボミスキー」連隊)の残存部隊 第3「ザレンモン」義勇大隊(ドイツ語版) 騎兵第6「ヴァーゾルト」胸甲騎兵連隊 第7「ホルン」胸甲騎兵連隊 第9「ブレードウ」胸甲騎兵連隊 第11「ユンク=プラーテン」竜騎兵連隊 第12「オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク」竜騎兵連隊 第6「ヴェルナー」フザール連隊(「茶色のフザール」とも呼ばれる) 第7「ゲルスドルフ」フザール連隊
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