指導者として - 晩年
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「アントン・ヘーシンク」の記事における「指導者として - 晩年」の解説
プロレスを引退した後は、指導者としての活動に専念した。1985年から1989年までは国際柔道連盟教育普及理事を、1987年より国際オリンピック委員会委員を務めた。1987年に国際柔道連盟より九段位、1997年10月には十段位を授与された。 指導者としては、国際大会におけるカラー柔道着の導入を提唱していた。1988年のヨーロッパ選手権で採用に漕ぎつけた後、国際柔道連盟総会における数度の否決を経て、1997年、フアン・アントニオ・サマランチIOC会長の意見表明の後押しを得て、世界選手権におけるカラー柔道着採用が実現した。 1999年、2002年冬季オリンピック招致活動における収賄疑惑で警告を受けている。 2000年3月、国士舘大学より名誉博士号を授与され、学位論文として「柔道 JUDO -社会的側面と生体力学的原理にもとづく二つの私論-」を発表した。また同年の叙勲において、日本国政府より正四位勲三等瑞宝章を授与された。 2004年、国際柔道殿堂入り。 2010年8月27日、ヘーシンクは故郷のユトレヒトの病院にてその生涯を閉じた。76歳没。ウィレム=アレクサンダーオランダ皇太子は「ヘーシンク氏は決して忘れられることのないスポーツ界の英雄でした」と語り、フランス柔道連盟会長のジャン=リュック・ルージェはヘーシンクについて「我々はすばらしい人物を失った」と声明を残すなど、各界でその死が惜しまれた。翌9月に東京・代々木第一体育館で行われた世界選手権ではその功績を称え、大会初日の9月9日に会場でヘーシンクの追悼式が行われた。
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