抗命事件、清との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:26 UTC 版)
しかし旧体制での特権階級だった王族や士族の清への亡命など抗命が相次いだ。宮古島では、県派遣警察に対する在地士族の組織的抵抗が起こり、警官を排除して県に味方した島民を殺害した暴動「サンシー事件」も起きたが、警察力で平定された。 この日本側の琉球処分に清は再三抗議し、日本による琉球の併合を承認しない立場を明確にし、八重山への出兵をも検討した。[要出典]対する日本も琉球は元来自国に属するとし、交渉は平行線を辿った。この状況下で、アメリカ元大統領ユリシーズ・グラントが仲介となり、1880年北京で日清の交渉が行われた。 交渉の席上、日本側の思惑としては日清修好条規を期限内改正し中国内での日本人の通商権の追加(最恵国待遇の付与)が最重要課題であり、琉球帰属問題は外交カードの1つに過ぎなかった。そのため、琉球の版図は元来日本に属するものでありながらも、譲歩案として先島諸島(八重山列島・宮古列島)を割譲し清領とする事を提示した。しかし清は、琉球國を復興することを目論んでおり、当時ロシアとの領土問題も抱えていた所から先延ばしを選び、清側が調印せずに終わった。
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