戦闘以前のアンダルシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)
「バイレンの戦い」の記事における「戦闘以前のアンダルシア」の解説
デュポン軍は主に第二線の兵士で構成された。この第二線の軍は、元々プロイセンの駐留や憲兵隊を務める予定であり、ナポレオンがスペイン戦線を「ただの散歩」と軽視した証拠である。デュポン軍は6月上旬にコルドバに到着、アンダルシアにおけるはじめての正規な戦闘であるアルコレア橋の戦い(英語版)でドン・ペドロ・デ・エチャヴァリ率いるスペイン軍をなぎ倒して同日午後コルドバに入城、4日間略奪した。しかし、アンダルシアの民衆反乱が激しくなると、デュポンはマドリードからの援軍に期待してシエラ・モレナ山脈へ撤退した。 フランス軍は猛暑が続く中で撤退し、荷車500台もある略奪品と1,200人もいる病人が大きな負担となった。このとき従軍していた1人のフランス軍医は後に「我が小さな軍は15万人分の荷物を持っていた。ただの大尉1人すらロバ4頭が引く荷車が必要だった。1個大隊につき50台の荷車があることはコルドバの敗因となった。私たちの動きは全て妨害されていた。我が軍の敗北は将軍たちの貪欲に原因を求めるべきである。」と回想した。ゴベール将軍(英語版)の師団は7月2日にマドリードを出発してデュポンの遠征を支援したが、ゲリラ対策に軍を割かれ、デュポンの元に到着したのは1個旅団だけだった。
※この「戦闘以前のアンダルシア」の解説は、「バイレンの戦い」の解説の一部です。
「戦闘以前のアンダルシア」を含む「バイレンの戦い」の記事については、「バイレンの戦い」の概要を参照ください。
- 戦闘以前のアンダルシアのページへのリンク