慶應義塾入塾・官吏へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:22 UTC 版)
1871年(明治4年)に慶應義塾へ入塾し、英米の憲法史を研究、1873年(明治6年)に卒業し講師となる。同窓に馬場辰猪、和田義郎、森下岩楠、猪飼麻次郎など。またこの年には佐伯藩士・佐久間衛の次女れつと結婚。1874年(明治7年)に「商ニ告ル文」を慶應義塾の機関紙である『民間雑誌』に発表し、『西洋偉人言行録』を出版。1876年(明治9年)に慶應義塾の大阪分校の校長、1877年(明治10年)には徳島分校の校長に選抜され、文学者の森田思軒や後に盟友となる尾崎行雄や犬養毅などと交際し、英米の政治制度を研究した。民権の伸張と立憲体制の樹立という志を立て、『報知新聞』に評論を送り始めたのもこの頃である。ただし、矢野は1882年(明治15年)に京都において、急激な改革を行えば人心を失う恐れがあるので、漸進主義によるべきであると演説している。 1879年(明治12年)に福澤諭吉の推薦で、牛場卓蔵、犬養毅、尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれ、統計院の太政官から内務権大書記官を経て大蔵省に入省。大蔵書記官、ついで会計検査局員として勤め、従六位に叙せられる。私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設にも加わり、常議員となる。また1880年(明治13年)には小幡篤次郎らと私擬憲法を起草し、憲政の樹立を説いた『三勢論』は翌年、大隈重信によって奏上された。1881年(明治14年)には大隈と計って『郵便報知新聞』を買収し、同年1月に『郵便報知新聞社』社長に就任。しかし、井上毅から明治十四年の政変で政界を追われると、在野に下り、東京専門学校設立に携わり創立委員に就任する。
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