慶安武芸上覧
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慶安4年(1651年)厳包と利方の兄弟は、病に倒れた将軍徳川家光に武芸を披露するため、諸藩を代表する武芸の達人等と共に江戸に召集された。この時幕府の閣老から尾張藩御附家老・成瀬隼人正に宛てた書状が『徳川実紀』に引用されており「(家光が)柳生伊代(利厳)子供の兵法上覧成され度候旨、仰せ出され候間、当地差越候様に相達せらるべく候」と、兄弟の兵法を上覧することは家光直々の望みであることが記されている。 厳包と利方は2日間にわたって武芸を披露し、4月5日に燕飛、三学、九箇、小太刀、無刀、小太刀を、翌6日には小太刀、無刀、相寸等の勢法(型)を演じた。2人の武芸を見た家光は大いに機嫌を良くし、兄弟に時服と銀2枚を与えた。その様子はただちに2人の主君・光友に伝えられており、徳川頼宣による「柳生兵庫子共、兵法、御らんなされ候間、 弥々、御機嫌能く、御座候故と、目出度存ずる事に候」と記された書状が現存している。この時演じられた勢法(型)の中でも燕飛は出色であり、後々まで「古今無類、面白き事なりしぞ」と賞されたと『昔咄』は記している。
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慶安武芸上覧
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慶安4年(1651年)利方・厳包兄弟は、将軍徳川家光に武芸を披露するため、諸藩を代表する武芸の達人等と共に江戸に召集されている。 利方・厳包は2日間にわたって武芸を披露し、4月5日に燕飛、三学、九箇、小太刀、無刀、小太刀を、翌6日には小太刀、無刀、相寸等の勢法を演じた。2人の武芸を見た家光は大いに機嫌を良くし、兄弟に時服と銀2枚を与えた。その様子はただちに2人の主君・光友に伝えられており、徳川頼宣による「柳生兵庫子共、兵法、御らんなされ候間、 弥々、御機嫌能く、御座候故と、目出度存ずる事に候」と記された書状が現存している。この時演じられた勢法の中でも燕飛は出色であり、後々まで「古今無類、面白き事なりしぞ」と賞されたと記されている。
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