息子: ジョン・マギャヴィック大佐
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「カーントン」の記事における「息子: ジョン・マギャヴィック大佐」の解説
1843年にランドル・マギャヴィックが亡くなり、2人の息子ジェイムスとジョン(1815年-1893年)が遺産を引き継いだ。ジョンはカーントンを受け継ぎ、1893年に亡くなるまで農業を続けた。ジョンはキャリー・ウインダー(1829年-1905年)と結婚し、彼女は現在「The Widow of the South (南部の未亡人)」として知られている。 1840年代、ジョン・マギャヴィックは邸宅の改築を始め、当初のフェデラル様式からグリーク・リヴァイヴァル様式に作り変え、グリーク・リヴァイヴァル様式の2階建てのポルチコや、屋根裏に2つのドーマーを設置した。1850年代、マギャヴィックは邸宅裏に2階建てのポーチを追加した。インテリアにもグリーク・リヴァイヴァル様式を取り入れ、ほとんどの部屋に当時流行りの壁紙、faux-painting 、カーペットが施された。3階では壁紙3種類が発見された。1階中央通路は1864年の南北戦争の様相を表している。壁紙のデザインは改修されたものではあるが、当時人気だったものが施されている。応接室は暖炉の炉棚、新たな壁紙、カーペットの様式もグリーク・リヴァイヴァル様式にアップグレードされているのを見ることができる。ダイニング・ルームの200ピースにおよぶ食器のセットはマギャヴィック家が実際使用していたもので、全て手作りで貴重なものである。応接室の暖炉上の時計も一家が使用していたもので、現在もフランクリンの戦い後の1864年12月の頃と同様に作動する。 1848年12月、ジョンはルイジアナ州シボドーのダクロス・プランテーション・ハウスに住んでいたいとこのキャリー・ ウインダーと結婚した。2人は5人の子に恵まれたが、成人したのはうち2人だけである。南北戦争初期、マギャヴィックは所有していた奴隷をアラバマ州に送っており、1864年のフランクリンの戦い当時マギャヴィックは奴隷を所有していなかった。
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