徹底抗戦と戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 05:24 UTC 版)
「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「徹底抗戦と戦争の終結」の解説
とはいえ、ヤシュワント・ラーオ・ホールの奮戦は多くの仲間を集めた。戦線を離脱していたダウラト・ラーオやラグージー・ボーンスレー2世は再び戦争への参加を 試みるようになっていた。また、ラージプートのジャイプル王国やマールワール王国なども彼を支援したことで知られている。 一方、ヤシュワント・ラーオはバラトプルを追われたのち、8000の騎兵と5000の歩兵、20〜30門の大砲とともにチャンバル川を渡り、サトレジ川を越え、パンジャーブ地方のシク王国へと逃げていた。その君主ランジート・シングは、1804年8月1日付の手紙で彼との同盟と援助を約束しており、イギリスに彼との関係を断つように迫られていたが、それでも物資を援助していた。パンジャーブ地方最大の勢力であるシク王国を味方につけていた彼は、他のシク領主をも糾合して反英同盟の結成を試みた。 だが、12月17日にランジート・シングはイギリスの側についてしまった。このことを知ったヤシュワント・ラーオ・ホールカルはランジート・シングを呪い、このことはパンジャーブでことわざになったほどだった。 しかし、追い詰められていたのはむしろイギリスの方だった。当初、イギリス側は短期決戦を想定して戦闘を行っていたが、ヤシュワント・ラーオの奮戦により、戦争は想定の範囲を超えて長期化していた。イギリス東インド会社の負債は長期にわたる戦争により増大し、1800年の段階では1400万ポンドだった負債はすでに倍近くなっていた。イギリス側の財政逼迫は非常に深刻だった。 ヤシュワント・ラーオの必死の抵抗が、逆にイギリスを追い詰めたのであった。彼は一時的ながらも事実上、イギリスのインド植民地化への野望を打ち砕いた。 とはいえ、これらの事情から両者とも戦闘の続行は不可能であり、イギリスは使者を送ってヤシュワント・ラーオ・ホールカルに講和を要請した。こうして、12月24日に彼はパンジャーブのラージガートで講和条約ラージガート条約に調印し、長期にわたる第二次マラーター戦争は終結した。 なお、1806年1月6日と2月2日にラージガート条約は改訂され、ホールカル家に占領地の大半が返還されることとなり、戦争は引き分けという形に終わった。
※この「徹底抗戦と戦争の終結」の解説は、「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の解説の一部です。
「徹底抗戦と戦争の終結」を含む「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事については、「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の概要を参照ください。
- 徹底抗戦と戦争の終結のページへのリンク