復位に対する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:56 UTC 版)
「レオポルド3世 (ベルギー王)」の記事における「復位に対する論争」の解説
解放の翌年、1945年4月、左派系政党が国王の復位に反対を、カトリック系政党が復位に賛成を、それぞれ表明した。同年6月に、レオポルド3世自身が復位の意思を表明した。1946年、査問委員会はレオポルド3世を反逆罪に問わないと決定した。にもかかわらず、彼の愛国心を問う論争は続いた。 1949年の総選挙で、カトリック・自由党連立政権の誕生を受け、翌1950年3月、レオポルド3世の復帰の是非を問う国民投票(英語版)が開催された。全体では、国民の57.6%が彼の復帰を支持した。 国王支持派と反国王派ははっきりと分かれており、反国王派の多くは社会主義者とワロン人で構成されていた(ベルギー南部のフランス系のワロン地域は50%未満の賛成しか得られなかった)。一方、国王の復帰を支持したのはキリスト教民主主義者とフラマン人だった(ベルギー北部のオランダ系のフランデレン地域では72%が賛成)。 このように地域及び民族の亀裂を露呈させたことで、ベルギー国内が分断の危機に陥った。7月にレオポルド3世が帰国すると、抗議行動の出迎えを受けた。ストライキは暴徒化し、憲兵隊との衝突で数人の犠牲者が出た。レオポルド3世は国家の分裂を避けて君主制を維持するため、20歳の息子ボードゥアンをベルギー国王として支持するよう命令を出し、1951年7月16日に退位した。
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