後期:バンドの減退期(1981年 - 1985年)
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「ピンク・フロイド」の記事における「後期:バンドの減退期(1981年 - 1985年)」の解説
1983年発表の『ファイナル・カット(The Final Cut)』は、"A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters"(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品である。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態であった。 当初『ファイナル・カット』に伴うコンサート・ツアーも行う予定であったが、ウォーターズがこれを中止させた。このためピンク・フロイドは活動停止状態となり、メンバーはそれぞれのソロ活動を行うことになる。すでに脱退していたライトもソロ・プロジェクトを立ち上げた。 1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール(About Face)』を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行った。しかし、両者のアルバムの売り上げ並びにコンサートの観客動員は芳しいものではなく、空席の目立つ観客席を前に演奏することが多かった。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも拘わらず)チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまった。 1985年6月、ウォーターズはマネージャーであるスティーブ・オラークとの契約を破棄しようとした。しかし、オラークはウォーターズの意に反し、引き続きピンク・フロイドの仕事を続けたため、ウォーターズはギルモアとメイスンの同意を取り付けようとするが両者は拒否、結局ウォーターズは同年12月に「ピンク・フロイドは創造性を使い切った」との理由でバンドを脱退した。ウォーターズにとっては、ピンク・フロイドはもはやその存在価値を無くしていた。ウォーターズは、リーダーである自分が脱退することでバンドの解散を意図していたが、ギルモアはフロイドの活動継続を決めた。 ウォーターズは脱退後、映画『風が吹くとき』のサウンドトラックを担当した。これはウォーターズ自身のアルバム制作のためのヒントとなり、1984年の『ヒッチハイクの賛否両論』に続くソロ・アルバムの制作につながった。ウォーターズはプロデュースをボブ・エズリンに依頼したが、エズリンはギルモア主導のピンク・フロイドの新作プロデュースのためにこのオファーを断り、ウォーターズの怒りを買った。
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