後日の議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
多数の収容者が生き延びた結果、第二次世界大戦後に「白バス」遠征隊のことは広く知られることとなった。しかし年月と共にスカンジナビア人収容者に与えられた優先度について疑問が持ち上がり始め、その中に歴史家のイングリッド・ロムフォルス(Ingrid Lomfors)著の「死角」(Blind Fläck)があった。スウェーデンとノルウェー両国の新聞紙上で議論が交わされた。ノルウェーの新聞「アフテンポステン」紙(Aftenposten)の2005年2月14日付に掲載された投書で幾人かの元政治犯収容者がロムフォルスに対し非常に手厳しい批評をした後でこう結んでいる。 "スウェーデン政府を代表してフォルケ・ベルナドッテと「白バス」の隊員たちは第二次世界大戦中にスウェーデンが行った中でも最大の人道的行為を実行した。スウェーデン政府はでき得る限り早急にこの遠征隊を顕彰する記念碑を建立すべきである。イングリッド・ロムフォルス氏はスウェーデン赤十字社と自らの命を懸けて任務を遂行した「白バス」の隊員たちに謝罪するべきである。 しかしながらこのことに陽の光が当てられたことは正しかったと感じる。スウェーデンの解放者のためだけでなくあの困難な状況下で彼らを手助けした我々にとっても、適切なやり方で死角を取り除いてくれたイングリッド・ロムフォルス氏に多大なる感謝を表する 。 "病気で飢えた収容者(ポーランド人、フランス人、ベルギー人)は総じて無関心のように見え、通常は10人乗りのバスに50人が乗れるほど痩せ細っていた。" "私の次に指揮を執りトルガウの収容所から帰ったペール(Per)は、ひどくふさぎ込み泣いていた。私は彼を慰めた。輸送中に3名の収容者が死亡し、1名は死ぬまでライフルの銃床で殴られたということだった。" ノイエンガンメに留まっていれば更に多くの収容者が生き延びられたかどうかは定かではない。何故ならばノイエンガンメに居た多くの収容者が乗った船は英軍の飛行機に爆撃され沈没したからである。しかし、全ての収容者に公平な扱いをするという赤十字の金科玉条はこの親衛隊との抜け目ない取引により破られたことは間違いない。 これらの元収容者の幾人かと彼らの多くの孫子が今もスウェーデン南部で生活している。収容者の多くが最初に到着したスウェーデンの地であるマルメの街に数多くの関係者が現存している。
※この「後日の議論」の解説は、「白バス」の解説の一部です。
「後日の議論」を含む「白バス」の記事については、「白バス」の概要を参照ください。
- 後日の議論のページへのリンク