当時のヴァールブルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:40 UTC 版)
「ヴァールブルクの戦い」の記事における「当時のヴァールブルク」の解説
ヴァールブルクの町はすでに1757年5月、ハノーファーの部隊に占領されたことがあった。同年中にフランスの占領軍が進駐したが、1758年4月には再び撤収を強いられている。1759年にも双方の陣営が短期間、町に滞在した。しかし、これら短期間の駐留の影響も1760年夏の戦いが及ぼしたものに比べれば、遥かに小さかった。 早くも1760年7月28日、「フィッシャー義勇部隊」が町に進出し、ムイ伯の軍団が来る手筈となっているディーメル川に追加の橋を架けるべく、住民に床板などの木材の供出を迫っている。町はこの要求に応じ、同日の夜にも司令部と兵4,000名を伴うフランス軍の上級指揮官を受け入れる。指揮下の部隊の残りは町の外で宿営した。町に収容されたフランスの兵士たちは周辺の村に移される前に、早くも最初の略奪を働いたと言われている。 7月31日の朝、双方の前哨部隊がデーゼンベルクで戦闘を開始すると、市域もそれに巻き込まれることとなった。 「町の人々は皆、最大の恐慌、心配と恐怖に包まれた。」 と後にヴァールブルクの秘書官、ヨハネス・アンドレアス・フィッシャーは伝えている。間もなく、最初の負傷者である20名のフザールが町に運ばれ、手当てを受けた。夕方には「フィッシャー義勇部隊」が「イギリス人軍団」によって町から追い払われる。しかし、続いて町を最悪の行為が襲った。グランビー卿の指示により、連合軍の軽装部隊は2時間から3時間(時間は文献によって異なる)にわたってヴァールブルクの略奪を許可されたのである。それには「イギリス人軍団」だけでなく、ヘッセン=カッセルとブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルのフザールも携わった。その際、民間人に対して少なくとも女性1名が射殺され、他の2名が発砲を受ける重大な狼藉が働かれている。墓地は町の外にあり、そこに軍人が宿営していたので立ち入りが禁じられたため、死者の埋葬は9日間の延期を余儀なくされた。 今や町と周辺の全域で、穀物その他の食糧を徴発したのは連合軍であった。フェルディナント公と、連合軍の諸将のほとんどは8月24日までヴァールブルクに滞在する。結果として、町は総額50,000ターラーに上る物的損害を被った。後に支払われた賠償金は、フェルディナント公が市議会に届けた2,000ターラーに留まった。
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