建造物群の示すもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:44 UTC 版)
「マハーバリプラム」の記事における「建造物群の示すもの」の解説
6世紀以降のパッラヴァ朝、チャールキヤ朝、パーンディヤ朝の三王国抗争時代の南インドは、文化的には新しい発展をとげた時代である。北インドのアーリア人文化の南インドにたいする影響は紀元前のアショーカ王の時代からみられるが、4世紀から5世紀にかけてのグプタ朝における新しいヒンドゥー文化もまた南インドにもたらされ、それまでの仏教やジャイナ教あるいはドラヴィダ系固有の信仰にかわって浸透していった。それとともに、シヴァ神、ヴィシュヌ神などの新しい神格、リンガ崇拝や化身思想といった北インドのグプタ朝文化の諸要素は南インド固有の伝統文化と融合し、さらに新しい文化の形成が促されたのである。パッラヴァ朝やチャールキヤ朝では、グプタ朝のもとに完成されたヒンドゥー教的社会秩序を範とした統治がなされたものの同時代の北インドの諸地域に比較すれば柔軟性があったからであり、これは逆に北インドのヒンドゥー思想に対しても影響をあたえたのである。 マハーバリプラムの建造物群についていえば、石窟を中心とする古代から石造を主とする中世への建築史上の転換がみられる点が注目される。上述の、石窟寺院が未完成のまま残されていることは、その間の事情を示すものと考えられる。建造物群は、同一箇所において、石窟寺院、石彫寺院、石造寺院の順で推移したことを示し、また、この地域が南インドのヒンドゥー建築を主導していた地域であったことをも示す点できわめて重要な資料となっている。
※この「建造物群の示すもの」の解説は、「マハーバリプラム」の解説の一部です。
「建造物群の示すもの」を含む「マハーバリプラム」の記事については、「マハーバリプラム」の概要を参照ください。
- 建造物群の示すもののページへのリンク