広徳寺 (東京都練馬区)とは? わかりやすく解説

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広徳寺 (東京都練馬区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/05/29 08:14 UTC 版)

広徳寺

境内
所在地 東京都練馬区桜台六丁目20番18号
位置 北緯35度44分51.42秒
東経139度39分22.3秒
山号 円満山
宗派 臨済宗大徳寺派
創建年 元亀天正
開基 明叟和尚
正式名 円満山 広徳禅寺

広徳寺(こうとくじ) は、東京都練馬区桜台六丁目にある、臨済宗大徳寺派寺院。山号は円満山。

目次

歴史

戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の3男で、岩槻城主であった太田源五郎小田原に明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。なお、太田源五郎は、かつては太田氏房と同一人物であるとされていたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏織田氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。その広さは大田南畝狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷鬼子母神」などと並んで知られている。

大正12年(1923年)の関東大震災により、寺域はほぼ焼失。その2年後の区画整理で現在の練馬区に墓地のみを移転し別院とした。その後昭和46年(1971年)には本坊も練馬に移転し、現在の形となった。

境内

正面より門を眺める

墓地も含めた境内は20000坪で、都内最大級の広さを誇る。加賀前田氏や久邇宮家より譲り受けた建物や立派な庭園などがある。紅葉が美しく、その静寂に包まれた寺域は東京都内とは思えないほどの静けさである。境内も墓地も基本的には拝観謝絶となっている。

墓地

江戸時代の諸大名の檀家として栄えたため、多くの著名人の墓が残っている。加賀前田氏の墓石などは明治期に汽車で金沢まで運んだそうである。現在残されている前田氏の墓石のほとんどは女性であり、前田氏は経済的理由もあり、男性の墓石を優先して運び去った。

広徳寺に眠る著名人

関連項目




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