広島事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 01:10 UTC 版)
新婦人協会に共鳴した女教員を中心に、広島県内に結成された協会支部(広島支部、三原支部、福山支部)に対し、広島県当局が圧力をかけた事件。 新婦人協会は、組織拡充の一環として小学校女教員に働きかけ、地方組織の拡充を図った。平塚らいてうは、1920年(大正9年)の新潟柏崎の講演旅行を皮切りに名古屋、奈良、大阪、広島等を廻り支部結成を訴えた。1920年11月15日には広島県三原女子師範学校会議室で、平塚を囲んで県内協会員と教員を交えた懇談会を開催。その後の会員会議で福山、三原、広島の3支部設置を決定する。 ところが、同じ日に刑事が同校を訪れ、翌日には地元警察署より会合に関する問い合わせが来る。11月19日には、同師範学校長が広島県庁に呼び出され、女教員が、政治的性格を有す新婦人協会へ加入する事は不都合と通告された。11月21日には平塚のもとに知らせが届き、平塚と市川房枝は内務、文部両省や警保局長を訪問して見解を正す。続いて広島県当局へ事情説明を求める電報送付。 騒ぎの拡大に慌てた広島県当局は、女教員入会を認めると前言を翻すも、一方では県内の郡役所や県視学官による、新婦人協会支部所属の教員に対する召還・調査、戒告が行なわれ、支部からの退会や機関誌購読を中止する者が続出。遂に広島支部は解散となる。 これに対し新婦人協会側は、新聞紙上や『女性同盟』誌上に広島県当局批判の論陣を張る。広島県側は、教員の政治活動を制限する1917年(大正6年)発令の訓令第11号を盾に、選挙法改正と治安警察法五条改正運動に関与しない条件で、女教員の協会加入を認めると表明。協会側は、法改正を求める請願権は国民の権利であると抗議するが、広島県内の支部会員は激減した。
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