広島仏壇
広島仏壇 |
ひろしまぶつだん |
仏壇・仏壇 |
金仏壇 |
広島は、古くから浄土真宗が盛んな土地柄でした。江戸時代初期に、紀州から移り住んだ飾り金具細工師や桧物細工師(ひものさいくし)、塗師(ぬし)等の技術をもととし、その後、敦高(とんこう)という僧が京都、大阪に出向いて、仏壇・仏具の高度な製造技術を学んで帰ったことで、広島仏壇の技術・技法が確立されました。明治時代に入り、瀬戸内海の水運の便を利用して全国に出荷されましたが、第二次世界大戦で壊滅的打撃を受けました。戦後、過去の伝統を受け継ぎ復活しました。 |
広島県 |
昭和53年2月6日 |
広島仏壇は下地材料として、広島名産である牡蠣(かき)の殻を細かく砕いたものを使用した胡粉下地(ごふんしたじ)を使います。上塗りの「立て塗」の技術には定評があり、金箔押しの技術にも優れています。形式は大阪型と似ています。 |
広島仏壇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 04:02 UTC 版)
広島仏壇(ひろしまぶつだん)は広島県広島市でつくられる仏壇のこと。経済産業大臣指定伝統的工芸品[1]と同地の伝統工芸品でもある。
概要
江戸時代初期に来た紀伊国出身の職人(金具や桧物の細工士、塗師)が基礎となり、僧侶の敦高(とんこう)がもたらした京都や大坂での製造技術が加わって形成されたとされる[3]。大正末期には仏壇生産量全国一位となり知名度を上げた[4]。
太平洋戦争での壊滅的被害の後に復興した[3]。1978年(昭和55年)時点での企業数は114、生産量1万3200本、出荷額35億円である[2]。
特徴
下地に牡蠣殻を使用している[3]。木地はスギ、松、ヒノキなどの木材を使用する。また、木地の構造は、釘を使わない「ほぞ組み」にする[4]。
仏壇通り
広島市の銀山町から堀川町を結ぶ通りは通称仏壇通りと呼ばれている。これは広島仏壇の店が多いことに由来する。付近はバーやパチンコ店、飲食店などが多い[2]。
脚注
広島仏壇
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