年代比定とは? わかりやすく解説

年代比定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/26 02:32 UTC 版)

延寿 (高句麗)」の記事における「年代比定」の解説

銀製盒の銘についての釈文李弘稙による)は以下の通り。 (外面底部) : ■寿元年太歳在辛三月太王敬造合杅三斤 (内面) : 延寿元年太歳在卯三月中太王敬造合杅用三斤六両 「敬造」については「教造」と読む異説もある。いずれにしても延寿元年辛卯年にあたることが認められる新羅古都である慶州での発見(同遺跡の発掘1926年)のために、当初新羅逸年号見られており、辛卯年についても391年451年511年諸説並立していた。しかし、新羅における年号元号)の使用法興王建元元年536年)であることや、4世紀末から6世紀初頭にかけて「太王」号を用いたのは高句麗であったことから、長寿王39年451年)に相当するという見方が有力である。高句麗391年については広開土王即位年に当たり、永楽年号記されたことから延寿年号当たらない考えられた。

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年代比定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 10:20 UTC 版)

永楽 (高句麗)」の記事における「年代比定」の解説

好太王永楽太王号し、以下の8件の使用例碑文から確認できることから、永楽元年391年辛卯年)であると考えられている。また、三国史記高句麗本紀好太王紀や同書年表『三国遺事』王暦には好太王即位年を壬辰年(392年)としており、碑文に記す年代とは1年のずれがあるが、好太王治世22年及んだことをもって永楽年号22年目まで用いられたものと考えられている。 好太王碑文における永楽年号使用例 永楽年歳乙未 六年丙申 八年戊戌 九年己亥 十年庚子 十四甲辰 十七丁未 廿年庚戌

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