常陸国の福地氏
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常陸国に佐竹氏の家臣たる福地氏が数流ある。 本姓を源氏とし、『常陸家譜戸村義国本』他に収録する。伝によれば福地豊後守ははじめ縫殿助とも名乗り、九州は筑後国の生まれで佐竹義篤に仕え、豊後守の受領名を授かり、代々その官途状を家宝としたと伝わる。ただしこれ以外、詳細がない。 一方、同じ佐竹家臣福地氏に、源姓佐竹氏の一門たる一族がある。その家伝によれば山入氏義の四男の弘義は、高野城主清水氏を母として生まれ、長倉氏に庇護を受け育ち、豊後守護大友氏の流れを汲む田那部氏の養子となり、田那部豊後守頼秀の女を室とし、秀弘と名を改めるという。秀弘には田那部氏との間に秀繁なる男子があり、幼名を吉寿といったとされる。秀繁の子は藤秀といい、小田天庵氏治との合戦に功を挙げ、豊前守の受領名を授かるものの、天正4年(1576年)久慈川の鮭漁をめぐる、石神氏、額田氏の合戦で額田側の奉行が殺害されたことにより、翌5年(1577年)出陣するも石神長松院前で討ち死にしたとされる。藤秀の正室は瀬谷城主の人見正朝の女であったが、夫の討ち死ににより後家となり、藤秀の遺児である吉松を連れて人見氏の居城・瀬谷城に帰ったとされる。吉松はそのまま、人見氏に庇護されながら育ち、佐竹義重に召しだされるに及び、姓を福地に改め、福地豊前守正秀と名乗るという。 福地正秀には正室の川野丹波の女との間に嫡男に朝秀、次男・力之介、後の豊前守秀重、三男に治郎三郎秀国、四男に式部秀村がいたが、義宣の秋田転封に随行する際、次三男以下は供奉するに及ばずとの令が出されたことにより、正秀と嫡男 朝秀のみが出羽国に随行し、秀重は瀬谷村に帰農、百姓として土着した。秀国は慶長18年(1613年)町屋に住み、秀村は慶長14年(1609年)より小目村に定住するという。
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