常陸国の福地氏とは? わかりやすく解説

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常陸国の福地氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:53 UTC 版)

福地氏」の記事における「常陸国の福地氏」の解説

常陸国佐竹氏家臣たる福地氏が数流ある。 本姓源氏とし、『常陸家譜戸村義国本』他に収録する。伝によれば福地豊後守ははじめ縫殿助とも名乗り九州筑後国生まれ佐竹義篤仕え豊後守の受領名授かり代々その官途状家宝としたと伝わる。ただしこれ以外、詳細がない。 一方、同じ佐竹家福地氏に、源姓佐竹氏一門たる一族がある。その家伝によれば山入氏義の四男の弘義は、高野城主清水氏母として生まれ長倉氏庇護を受け育ち豊後守護大友氏流れを汲む田那部氏の養子となり、田那部豊後守頼秀の女を室とし、秀弘と名を改めるという。秀弘には田那部氏との間に秀繁なる男子があり、幼名を吉寿といったとされる。秀繁の子秀といい、小田天庵氏治との合戦に功を挙げ豊前守受領名授かるものの、天正4年1576年久慈川鮭漁めぐる、石神氏、額田氏の合戦額田側の奉行殺害されたことにより、翌5年1577年出陣するも石神長松院前で討ち死にしたとされる秀の正室瀬谷城主人見正朝の女であったが、夫の討ち死ににより後家となり、秀の遺児である吉松連れて人見氏居城瀬谷城に帰ったとされる吉松そのまま人見氏庇護されながら育ち佐竹義重召しだされるに及び、姓を福地改め福地豊前守正秀名乗るという。 福地正秀には正室川野丹波の女との間に嫡男に朝秀、次男・力之介、後の豊前守秀重、三男に治郎三郎秀国、四男に式部がいたが、義宣の秋田転封随行する際、次三男以下は供奉するに及ばずとの令が出されたことにより、正秀嫡男 朝秀のみが出羽国随行し、秀重は瀬谷村帰農百姓として土着した。秀国は慶長18年1613年町屋住み、秀慶長14年1609年)より小目定住するという。

※この「常陸国の福地氏」の解説は、「福地氏」の解説の一部です。
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